すでに明治20(1887)までの[子]のつく女性たちを紹介しました。しかし、「子のつく女性名のグラフ」が本当に立ち上がるのは、その後、1900年前後です。→

庶民が自分の女の子どもに[子]をつけ始めるのがその頃なのです。

 いったい1900年前後に何があったのでしょう。その時代の状況を、ある外国人が熱く語っています。ラフカディオ・ハーンです。ハーンは、英語で20冊ほどの本を書き、日本を欧米に紹介した人です。その中に「日本人の女性名」という文章があるのです。

 (9) ラフカディオ・ハーン「[子]は〈Lady〉」と言う。

 9-1 ラフカディオ・ハーン(日本名,小泉八雲1850-1904)の「Japanese Female Names」(1900)

 

  ハーンが「日本人の女性名」に感動した話はすでに書きました(→江戸以前の庶民の女性名)。そんなハーンは[子]についても言及しています。英文の「Japanese Female Names(日本人の女性名)」は、1900年にアメリカで出版された”Shadowings" (Little Brown & co.Boston)の中に入っています。これは当時の状況を知る同時代資料として重要です。引用します。                                                             ラフカディオ・ハーン

                                                                                                                                                                                        wikipedia「小泉八雲」より,public domain

 

 

日本人女性の多くは、「まつ」とか「うめ」というような2音節の名前で呼ばれている。以前は上流階級の女性はもっと長い名前で呼ばれていたのだが、最近は上流階級でさえ2音節が流行である。

 女性の名前は、習慣的に敬称として「お」が前に、「さん」が後につけられる。「お松さん」「お梅さん」というように。ただし名前が「菊枝」のように3音節の場合は「お」をつけない。「菊枝さん」と呼び、「お菊枝さん」とは言わないのである。

 最近は、上流階級の女性の呼び名は、以前のように「お」はつけない。そのかわりに「子」がつけられる。がしかし、百姓の娘「とみ」ならば相変わらす「おとみさん」と呼ばれるであろう。それが淑女なら「とみ子」と呼ばれるのである。(中略)

 「子」という漢字は「子ども」を意味しており、「小」と混同してはならない。「小」は舞妓(danching girl)の名前によくある「少し」を意味している。私はあえて「子」という上品な接尾辞は、「愛撫するような指小辞()」であると言わなければならない。

 いずれにせよ、「せつ」や「さだ」という日本の淑女は、もはや「おせつ」「おさだ」ではなく、「節子」「貞子」として扱われるのである。

 

一方、庶民である女性が「節子」「貞子」などと自分の名を書いたなら、みんなに笑われるだろう。「子」という接尾辞は「レディー」を意味し、「レディー セツ(the Lady Setsu)」「レディー サダ(the Lady Sada)」と自称していることになるからである

                     ......原著から筆者訳、平井呈一訳『全訳 小泉八雲全集 第9巻』(恒文社1964)を参考にさせてもらった。下線は筆者

 *愛撫するような指小辞(genteel suffix).....例えばポルトガル語には「...ニョ(nho)」という接尾辞があります。「ロナウド」の愛称は「ロナウジーニョ」です。

 

 つまり一般人が名前に[子]をつけることは、世間から「笑われること」だったのです。

 

 「レディ(Lady)」とは何でしょう。竹林・小島・東編『ライトハウス英和辞典』(1972研究社)によると、大文字で始まる「Lady」は

「[姓につけて]・・卿夫人、[名につけて]・・令嬢。LoadまたはSirの称号を持つ貴族の夫人、伯爵以上の貴族の娘につける敬称」とあります。

 当時の多くの日本人には、まだまだ「[子]のつく女性は華族など特別な人」という意識があったのでしょう。なかなかグラフが立ち上がらないのは、そのせいだったのではないでしょうか。

 

9-2 芸者たちの間に[子]のつく名前が流行した(明治25(1889)年--)

  さらにハーンは言います。

 

 近年、東京の芸者階級の間で、本名に[子]がついているふりをしたり、華族的な名前をつけたりすることが流行している。1889年、東京のある新聞は「この流行をくい止めるために、立法処置をとれ」と要求した。その記事は、この問題に対する一般人の感情がどんなものであるかを表しているようだ。

 

 たしかに1890年頃の新聞には、[子]のつく名前の「芸者階級」の女性が何人か登場します。

 

「亀子(かめこ)のしくじり」 『東京朝日新聞』明治24(1891)年6月18日

 からす森町の唄い女(うたいめ)大和屋の亀子(22)というは、地で生まれた芝っ子のちゃきちゃき。今より5,6年前、初めて亀の子と名づけてお酌に這い出すと、まだ可愛らしいゼニガメの頃、ある華長者の目にとまり(以下「ある夜、お役員のパトロンにうそをついて遊びに行き」)

 

「唄い女の得意と失意」 『東京朝日新聞』明治24(1891)年6月20日

 歌舞伎座の立ておやま坂東秀調は、かねて、よし町の三子(さんこ)と、人知れぬ交際を結び(以下、秀調は好きな人ができて結婚するらしい)

 

こんな記事が、こんな文体で、当時に載っていたのは驚きでした。

 

9-2 東京百美人、[子]のついた芸者たちの活躍

 また明治24(1891)年7月15日から9月12日まで、浅草の「凌雲閣」という12階建のビルで「東京百美人」というイベントもありました(右は、MEIJI TAISHO 1868-1926より http://showcase.meijitaisho.net/entry/ryounkaku_03.php )

 それは「東京中から集めたの105名の芸者たちの写真を貼り出して、美人コンテストをするというものです。その105名の名前は次の通りです。

 15名(14%) に[子]がついています。

春子 豆子  愛子  桃子  八千代子 とん子 たつ子 濱子

三子 たま子 かめ子 つま子 あり子  〆子  てい子   

 

 ラフカディオ・ハーンの言う通り、芸者階級の間で[子]が流行っていたのです。

接頭辞の「小」はどうでしょう。ハーンは「舞妓(dancing girl)の名前によくある」と言っています。

 

小ふゆ 小一 小辰 小と代 小つま 小蝶 小鷹 小ふゆ 小ふみ 小六 小花 小つる 小照 小かめ 小村 小きく 小雪 小みね 小花

 

 19名(18%)です。これもハーン言う通りでした。さらに「子ー」という名前もあります。

 

子ゑい 子ふさ 子てる 子まる 子奴 子清 子むめ 子竹 子千代 子いと 子まん 子うた 子奴 子かね 子つね 子靜

 

   16名(15%)です。さらにさらに「お--」という伝統的な名前の人もいます。

 

おかじ おまち おとわ おまる おすず おしゅん おきん おたつ おみつ おしづ おゑん おそよ お千代 おきり おりう おかる

おたま おしん おいね おなお 

   20名(19%)です。この4つの名前で67%を占めます。[--子]は、[こ(小,子)--][お--]と同様に、かわいらしさを表す女性名の要素となっていたのです。( 元データは、東京花柳界情報舎 http://karyuukai.jp/ryouunnkaku.html 、それを元に集計・統計とした)

 

9-3 芸者から女性議員まで(女性の社会進出)

  右の表を見てください。これは明治39(1906)年の榎本松之助『世界各国人民一日所得一覧表」をまとめたものです(しらかわただひこ氏のサイト(http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J058.htmを参考に、榎本(1906)を見ながら井藤が書き直した)

 男性だけの仕事が並ぶ中で、右端に女性の仕事がまとまっています。どんな仕事があったのでしょう。

 芸妓、娼妓、お茶屋の仲居、雇仲居

これらは、「芸者」やその「置屋」に関わる仕事です。それ以外は

 女義太夫(浄瑠璃語り芸人)

 髪結, 看護婦, 電話女技師, 木綿職工, 蚕糸繰, 養蚕女, 下婢(女中)

などです。もちろん農村では、女性が重要な働き手でした。しかし都会で、特に高給であったり専門職は男性が独占していました(弁護士など少数であるが女性がいた仕事も含まれる)

 

 次は、初めて女性が専門職となった年を表したものです。

1884 女医(荻野吟子)

1886 看護婦

1890 翻訳家(若松賎子) 、電話交換手、速記者(明治女学校に速記科)

1894 銀行員

1899 女優(川上歌奴、米国で)

1900 鉄道出札係、郵便局員

1900 デパート店員(三井呉服店→三越)

1904 大阪市役所、戸籍部の女子を採用

 

 そうした女性の社会進出に、批判の声があがりました。村上信彦『日本の婦人問題』1978,岩波新書には、当時の様子が描かれています。1904年の市役所女子職員採用に対して、週刊『平民新聞』「夫が女房に職を奪われる結果になる」という非難を掲載し、別の号では「廉価の女工はとうとう男工の業務を奪わんとし」(村上:p.3)という意見を掲載しました。『平民新聞』といえば、幸徳秋水らが創刊した社会主義結社の新聞です。そんな新聞が、女性の社会進出には批判的だったのです。

 

 それでも、女性の社会進出が進みます。村上(1978:p.67)には、次のような数字が載っています。

 

全女学生のうち就職した割合

  1917(大6)  3.4%   1918(大7)  3.9%      1919(大8)  4.8%    1921(大10)   5%

 といっても、高等女学校など女学校を出た女性たちは、1921年でも95%は就職せず、花嫁修行への道を歩んでいたのです。就職した少数の女性たちは「職業婦人」と呼ばれました。

 

1908 タイピスト(日本女子商業学校:現,嘉悦大学、タイプライターの教授開始、1915和文タイプの発明)

1913 女子大学生(東北帝国大学3名。1901日本女子大学校は「専門学校」の規定)

1920 バスガール(東京市街自動車会社)

1928 弁護士(中田正子)

1946 女性議員(衆議院40名、加藤シズエら)

 

 

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(10)畠山勇子は、男か、女か

 

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