(3)女にとっての明治維新ー統計で見る男と女の社会史

 日本人の名前の変遷から、「日本の社会史」を見ることはできないでしょうか。「名前」は、当親たちが子どもたちに与える最初のプレゼントですから、名前から当時の親たちの意識を知ることができるからです。いわば名前は「一種の世論調査」と言えるのではないでしょうか。

 特に、名前から、当時の人々の「男性観」「女性観」を見ることができます。現在は、名前の男女差は以前より少なくなっていて、名前を見ただけでは男か女かわからない場合もありますが、「男性名」「女性名」がはっきり区別されていた時代もあります。

 まずは社会全体における「男女差」はどのように推移してきたか、を見てみましょう。

 

 男と女は、だいたい同じ数だけいます。男が100人なら女は100人です。歴史の上では、どうだったでしょうか、1:1がふつうだったでしょうか。

  3-1 「日本史の重要人物42人」に、女性は何人いるか?

 岡村道雄他監修『学習漫画 日本歴史 テストに出る! 超重要42人』(集英社2010)という児童書があります(→アマゾン)。その中に女性は何人いるでしょう。

 ア.  20人

 イ.   9人

 ウ.   3人

 エ.   0人

 どう思いますか。その答えは、下を見てください。女性は何人いますか。

 

1卑弥呼 2聖徳太子 3小野妹子 4中大兄皇子 5藤原鎌足 6聖武天皇 7行基 8鑑真 9藤原道長 10紫式部 11清少納言

12平清盛 13源頼朝    14源義経  15北条時宗   16足利義満 17足利義政 18雪舟 19ザビエル 20織田信長 21豊臣秀吉 

22徳川家康 23徳川家光 24近松門左衛門 25歌川広重 26本居宣長  27杉田玄白 28伊能忠敬 29ペリー 30勝海舟 31西郷隆盛

32大久保利通 33木戸孝允 34明治天皇 35福沢諭吉 36大隈重信 37板垣退助 38伊藤博文 39陸奥宗光 40東郷平八郎 41小村寿太郎

42野口英世

 

 女性は、1卑弥呼 10紫式部 11清少納言 の3人です。しかもどれも「本当の名前」ではありません。「卑弥呼」は、固有名詞ではなく「ひめみこ(日女御子)という普通名詞である」というのが定説です。「紫式部」「清少納言」も、「式部」「少納言」という役職名が元です。

 

 3-2 女性の名前を尋ねることは求婚を意味した

 『万葉集』の一番最初は、雄略天皇の歌です。「籠もみ み籠持ち(こもよ みこもち)」で始まります。そして続きます。

   「家聞かな 名告らさね」 (あなたの家を、あなたの名前を聞かせてほしい)

 雄略天皇は名前を聞いています。それは「私の妻になりませんか」という意味です。

 昔は、女性の名前が公になることはあまりありませんでした。「紫式部」でも「式部大丞の娘」からつけられた女房名です。歴史史料を見ていても、「◯◯の妻」「◯◯の娘」とだけ記されている例が少なくありません。

 

 3-3 「日本史の重要人物42人」に、女性は3人だけ、妥当か少ないか

 

 『学習漫画 日本歴史 テストに出る! 超重要42人』(集英社2010)では、「日本史の重要人物」として、男性が39人、女性が3人、選ばれています。

あなたは、どう思いますか。

 ア.  女性が少ないのは妥当だ。

 イ.  女性が少なすぎる。

 

 [ア]の考えはどうでしょう。江戸時代には『女大学』という女子教訓書がありました。そこには女にとって大切だとさせる「三従の道」が具現化されています。「三従」とは「子どものときは父兄に従い、結婚したら夫に従い、夫が死に老いたら子に従う」というものです。「日本史の重要人物」39人にも、背後に女性がいて、その女性たちが支えていた」ということです。

 それはある意味、仕方がないことでもありました。『厚生白書 昭和51年』によると、家事時間は「戦前は10〜11時間を要していた」のです。

炊飯器も、掃除機も、洗濯機も、ガス風呂もない時代は大変でした。使い捨てのオムツもありませんでした。かまどでご飯を炊き、手で洗濯し、薪で風呂を沸かさなければなりませんでした。「専業主婦」が当たり前だったのです。

 

 とはいえ[イ]のように、どう考えても「3人は少なすぎる」ように思えます。

 

 3-4 オリンピックの日本選手団の男女比

 右のグラフを見てください。これは日本のオリンピック選手団の「男女比」を表したものです(*)。最初の頃は、男子だけの選手団でした。第9回アムステルダム大会(1932)で、初めて女子選手人見絹子が出場し、メダルを獲得しました。現在では、オリンピック選手団の男女比は、ほぼ1:1です。最近のアテネとロンドンのオリンピックでは、女性選手数が男性を上回りました。

 世界全体で見ても、最初の頃のオリンピックは「男だけのもの」といってもいい状態でした。そういえば、古代オリンピックも参加選手は男だけでした。

 今のオリンピックを見てみると、男子だけの種目(夏季の野球・ボクシング、冬期のボブスレー)も、女子だけの種目(夏季のシンクロナイズドスイミング・新体操など)もあります。

 「マラソン」も、最初は女子がありませんでした。女子マラソンは、1984年のロサンゼルス大会で初めてオリンピック種目として認められました。それで「高橋尚子」のような選手が活躍し、メダリストになることができたのです。

初出は、井藤伸比古「オリンピック選手団の男女比 グラフで見る世界-309」『たのしい授業』14年3月号、仮説社)。

 

 3-5 男女差を超えて

 「日本史の重要人物」として、42人中、女性が3人しかいませんでした。それは、あまりに「もったいない」気がします。もし女性の多くが活躍できていれば、これまでの「日本史」も変わっていたかもしれません。これからの世の中は、男女差を超えて、一人一人の才能が生かされる世の中になると良いと思うのですが、いかがでしょう。

 

 3-6 女にとっての明治維新

 右のグラフを見てください。これは日本の人口の推移です。明らかに明治維新(1868年)を境に人口増加が始まっています。

 今度は下のグラフを見てください。それは「[子]のつく女性の割合」のグラフを重ねたものです。「[子]のつく女性の割合」のグラフは、明治維新からほぼ30年遅れています。

 30年というと、ちょうど明治維新以後に生まれた人が親になる時期です。世の中が「江戸世代」の人たちから「明治世代」の人たちに変わろうとした時期です。

 

 私は、1900年前後を「女にとっての明治維新」の年、と思っています。例えば、髪型です。男たちはチョンマゲだったのを明治維新を境に「断髪」します。女たちは「日本髪」を「断髪(結わない)」ようになるのは1900年頃です。

 

 女性の社会進出もこの時期です。それまで女性のいえば、「産婆」「女工」ぐらいでした。それが「デパートの女店員(1900年、今の三越)」「女医(荻野吟子1884年)」などが生まれます。

 そんな女性の社会進出のシンボルが「[子]のつく名前」だったのではないか、そう思っています。