まず自分の名前に[子]をつけた女性たちは、華族でした。華族とは、英国の制度を見習ったものです。公爵/侯爵/伯爵/子爵/男爵の5種類がありました。
◯華族婦人のとなえ
これまで華族方の婦人は、何子とすべて子の字をつけてよび来たりしに、今来に到り、まま、子の字を省き、単に〈何〉とのみ名乗る向きもありて、『華族名鑑』記載方に不都合なれば自今、なるべくたけ〈子〉の字を付すべし。かつ目今の称名を取り調べ差しだすべきむね、その筋より各華族へ通達ありたるよしに聞く。(原文を現代語に、句読点を加えた)
華族は、もともと旧公家と旧大名家(諸侯,270家)などに与えられたものです。最初は427家ありました。江戸時代は、大名家の娘は[◯姫]でしたが、明治維新以降は[◯子]になったのです。
右は、彦根正三『華族名鑑』(博公書院1887)から(pp.1-2)です。たしかに夫人名に[◯子]が並んでいます。ただし「夫人」としか書かれていない欄もあります。
この『華族名鑑』には、578家の華族が載っています。そのすべての「夫人」欄がどうなっているかを調べてみると
「夫人」とだけ書かれている 224
[◯子] という名前 344
[子]がついていない名前 10
(オト2,太以,すま,和賀,元二,菊枝,捨松,等代,イリシャーベット)
ほとんどすべて(97%)が[◯子]です。
他の年の『華族名鑑』も見てみることにします。
右は明治元年から明治24年までの『華族名鑑』のリストです。実は元々の『華族名鑑』には、夫人名の記載はなかったのです。
それが『改新新聞』「華族夫人の称え」の記事が出た時期から記載が始まるのです。それはいったいどういうことでしょう。
『鹿鳴館』ができたのは1883年のことです。そして1887年までの5年間、西洋式の祝宴が開かれ、国賓や外交官を接待し続けました。それは諸外国に対して、日本が近代国家であることを知らしめるためでありました。
そんな鹿鳴館時代の始まりとともに、『華族名鑑』に夫人名を記載するようになったのです。「日本の華族は夫人の地位も尊重している」ことを内外に知らしめたかったのでしょう。
そんな華族の中に[◯子]さんたちは、日本の女性全体の地位も高める役割も果たしました。
→テレビや舞台で「鹿鳴館」や「妻たちの鹿鳴館」が演じられる。そこには数々の淑女が登場する。そのモデルを列挙してみる。
井上武子(井上馨夫人)、伊藤梅子(伊藤博文夫人)、陸奥亮子(陸奥宗光夫人)、
戸田極子(岩倉具視娘)、大山捨松(大山巌夫人)
「鹿鳴館の花」と言われた山川捨松(1860-1919) 。津田梅子とともに米国に派遣された女子留学生の1人(11才だった)。本名は「さき」。米国に行くとき、父親が「捨てて待つ」という意味をこめて改名した。23才のとき山川巌と結婚、披露宴は鹿鳴館で盛大に行われた。この人は『華族名鑑』の中では「捨松」と書かれていて、数少ない「[子]のない華族女性」である。
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