[6] 華族の女性たちと[子]

 明治維新時は、皇族と宮中の女性たちだけが[◯子]でした。それが1900年頃から日本全体に[子]のつく名前が広がります。いったい明治維新からそれまでに何があったのでしょう。

 まず自分の名前に[子]をつけた女性たちは、華族でした。華族とは、英国の制度を見習ったものです。公爵/侯爵/伯爵/子爵/男爵の5種類がありました。

 

 

 右の新聞記事を見てください。これは明治18(1885)年1月29日の『改新新聞』です。次のように書かれています。

 

◯華族婦人のとなえ 

 これまで華族方の婦人は、何子とすべて子の字をつけてよび来たりしに、今来に到り、まま、子の字を省き、単に〈何〉とのみ名乗る向きもありて、『華族名鑑』記載方に不都合なれば自今、なるべくたけ〈子〉の字を付すべし。かつ目今の称名を取り調べ差しだすべきむね、その筋より各華族へ通達ありたるよしに聞く。(原文を現代語に、句読点を加えた)

 

 華族は、もともと旧公家と旧大名家(諸侯,270家)などに与えられたものです。最初は427家ありました。江戸時代は、大名家の娘は[◯姫]でしたが、明治維新以降は[◯子]になったのです。

 

 右は、彦根正三『華族名鑑』(博公書院1887)から(pp.1-2)です。たしかに夫人名に[◯子]が並んでいます。ただし「夫人」としか書かれていない欄もあります。

 この『華族名鑑』には、578家の華族が載っています。そのすべての「夫人」欄がどうなっているかを調べてみると

 「夫人」とだけ書かれている 224

    [◯子] という名前                    344 

    [子]がついていない名前   10

    (オト2,太以,すま,和賀,元二,菊枝,捨松,等代,イリシャーベット)

 ほとんどすべて(97%)が[◯子]です。

 

他の年の『華族名鑑』も見てみることにします。

 右は明治元年から明治24年までの『華族名鑑』のリストです。実は元々の『華族名鑑』には、夫人名の記載はなかったのです。

それが『改新新聞』「華族夫人の称え」の記事が出た時期から記載が始まるのです。それはいったいどういうことでしょう。

 

 『鹿鳴館』ができたのは1883年のことです。そして1887年までの5年間、西洋式の祝宴が開かれ、国賓や外交官を接待し続けました。それは諸外国に対して、日本が近代国家であることを知らしめるためでありました。

 そんな鹿鳴館時代の始まりとともに、『華族名鑑』に夫人名を記載するようになったのです。「日本の華族は夫人の地位も尊重している」ことを内外に知らしめたかったのでしょう。

 

 そんな華族の中に[◯子]さんたちは、日本の女性全体の地位も高める役割も果たしました。

 

 

 

→テレビや舞台で「鹿鳴館」や「妻たちの鹿鳴館」が演じられる。そこには数々の淑女が登場する。そのモデルを列挙してみる。

 

上武子(井上馨夫人)、伊藤梅子(伊藤博文夫人)、陸奥亮子(陸奥宗光夫人)、

戸田極子(岩倉具視娘)、大山捨松(大山巌夫人)

 

「鹿鳴館の花」と言われた山川捨松(1860-1919) 。津田梅子とともに米国に派遣された女子留学生の1人(11才だった)。本名は「さき」。米国に行くとき、父親が「捨てて待つ」という意味をこめて改名した。23才のとき山川巌と結婚、披露宴は鹿鳴館で盛大に行われた。この人は『華族名鑑』の中では「捨松」と書かれていて、数少ない「[子]のない華族女性」である。

 

 

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(7) 自由民権運動と[子]

 

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