[5] 江戸以前の庶民の女性名は?

5-1  明治4年の戸籍から

 

 嵯峨天皇以来、皇族の女性名には[子]、臣籍降下した皇女名には[姫]がつけられました。それでは、庶民の場合はどうでしょう。

①右の表は、明治4年の神奈川県の富岡村の戸籍から、女性288名全員の名前を抜き出したものです。どんな名前が並んでいますか。

 

 すべて「かな2字2音節」です。当時の女性は、それに「お」をつけて「おたけ」さんと呼ばれていたのです。

 

 こうした事実に驚いた外国人がいました。ラクカディオ・ハーン=小泉八雲(1850-1904)です。「Japanese Female Names(日本の婦人名)」(1900年)という文章を書いています(注1)。その最初の部分です。

 

   By the Japanese a certain kind of girl is called a Rose-Girl--Bara-

   Musume.

     日本のある種の女の子は「Rose Girl(バラ娘)」と呼ばれる。

  Because a yobina happens to be identical with the name of some tree, or bird, or flower

 呼び名は、木の名、鳥や花の名からとられている。

 

 「Rose Girl」というのは、英米の人ならだれでも知っているテニスンの小説の主人公名です。それとつなげて日本女性の名前が「花の名前で呼ばれる(お梅さんとか)」ことのおもしろさを海外の読者に伝えているのです。さらにハーンは、日本の女性名から日本文化の奥深さへと言及しています。

 

   Not in theory only, but in every-day practice,moral beautiy is placed far above physical  beauty.

 (日本では)道徳上の美しさが、身体の美しさよりはるか上に置かれていることは、これはただ、りくつの上ばかりでなく、

 日常生活でもそうなのである。

 

 ハーンは、「大部分の日本女性の名前は、美しさより「たか(貴)」「とし(年)」といった道徳とか長寿に重きが置かれている」と言い、日本人独特の道徳的な考え方に驚嘆しているのです。

 

(注1)"Japanese Femaie Name",Shadowings,Little Brown,and Company Boston,1901  日本語訳として、平井呈一訳『全訳小泉八雲全集 第9巻』(1964恒文社)がある。

5-2  江戸時代の「宗門改」から

 

  日本女性は、いつから「かな2字2音節」の名前になったのでしょう。

 日本には「宗門改」という戸籍簿が1600年代後半から日本全国で作られています。キリシタン禁止に伴ってできたもので、それは庶民の名前を知る貴重なデータです。

 

② 右は江戸中期(1733年)八町村の宗門改帳からのものです。「八町」とは、今は岡崎の「八丁味噌」で有名なところです。江戸時代は村でした。

さて女性名は?................................すべてひらがな2字2音節です

 つづいて江戸初期です。1690年に書かれた「宗門改」(丹羽郡橋爪村:現在の愛知県犬山市橋爪)があります(注2)。そこには12名の女性名が載っています。

 ..................やはりすべてが「かな2字2音節」です。(*1)

 (*1)『犬山市史 史料編5 近世下』pp.123-127には、実際には次のような活字で書かれている。

 あき 津ま はる きま い巳 津し と満 袮々 津し いや 津た すて

  ここに記された「津、巳、満、袮」は、平仮名の異体字と見て良いだろう。

④ もう少し時代を遡って、1671年に書かれた「宗門改」(栃井村:現在の岐阜県川辺町)を見てみましょう。

 ここには127名の女性名が載っています。そのうち117の名前は「2字2音節」です(注)。「3字3音節」以上の名前は10(8%)あります。

 ちよ                ちょう  まん  いのこ   ちゃうあま 

 ちよ  こちよ  ちょう  なう   いのこ

 

そのうち7名は、「こ(小)」がついています。

 

 (注:「117の名前が2字2音節」と書いたが、その中には「漢字名1」「拗音を含む9」も含まれる。それも2音節名であるので、「2字2音節」の中に含めた)

 

 そうした「かな2字2音節名」が文献に見られるようになるのは室町時代です。角田文衛『日本の女性名(中)』(1987教育社)には、こう書かれています。

 仮名二字型の名の成立は、室町時代前期においてはまだ緩慢であるが、後期に入ると、加速度的に進行するのである。(p.91)

 

 ⑤ いろいろな文献を探っても、なかなか庶民の女性名は出てきません。ふつうの文書は男性が家長として書かれることがふつうだからです。滋賀大学編『菅浦文書 上』(1960, 有斐閣)には、数少ないですが、庶民の女性名が載っています。「477 出銭日記」(永禄7(1564)年6月21日」には、最後に15名の女性名が載っています(僧侶を抜く)。

 よめ女 なれ女 ちやち つる女 いのこ くり となり しゆて なな女 石松女 千代女 なら女 なら女 女 ついたち

  

 [め(女)]をとれば、9名が「2字2音節名」になります。

 ここまでをまとめてグラフにすると、右図のようになります。①から④までの他に、⑥「1804」の宗門改帳のデータ(『堀江文書』より)も加えてあります。

 庶民の女性名は、1500年代になると「かな2字2音節」が定着し、江戸時代に入るとほとんどすべてが「かな2字2音節」になるのです。

 それでは、どうして江戸時代の庶民の女性名は、ずっと「かな2字2音節」なのでしょう。

 

 もう一度、1690年に書かれた「宗門改」(丹羽郡橋爪村:現在の愛知県犬山市橋爪)を見てみましょう。

 実はこの文書は、切支丹の取り締まりのために作られたものです。12名の女性名が記されていますが、そのうち9名(右表の●)が処刑されています。「一族郎党みな処刑された」と言ってもいいでしょう。そもそも「宗門改」という文書時代が、切支丹を取り締まり見張る目的で作られたものなのです。

 

 江戸時代は「士農工商、身分制度の時代」と言われます。安定した時代なのですが、その安定の背景には、厳格な身分制度があったのです。

5-3  「かな2字名」の移り変わり

  右のグラフを見てください。このグラフは3万人の女性名リストから「かな2字名」の割合を表したものです。明治維新のことに生まれた人は、ほとんどすべての女性が「かな2字名」でした。

 「かな2字名」ではない名前は、次の通りです。

 のりよ、寿(よし?)、秋江、知枝、きくの、かとり、かつえ

  (明治元年から明治10年まで)

それが1900年頃から減り始め、現在では2%ほどになっています。

 (注  この3万人データのうち、明治維新頃は、東京の『千桜小学校』

広島の『広島大学附属東雲小学校』、岐阜の『白鳥小学校』の各記念誌を使っている)

5-4 「かな3字名」の移り変わり

  右は、上のグラフに「かな3字名」を付け加えたものです。

 明治維新頃の3字名については、角田文衛(1988)『日本の女性名(下)』p.133では、主に「い、え、の、よ、を型」と書いています。それは「かな2文名」に、「い、え、の、よ、を」がつくのです。たとえば「まつ」なら

 まつ-い まつ-え まつ-の まつ-よ まつ-を

となります。他に「××み型」や「小××型」もあります。

 きよみ、はるみ、かつみ、小はる、小なつ

などです。

 そうした「かな」の名前は、1900年ころには減っていき、女性名も漢字で書かれるようになります。戦後になって、「かな」の名前が復活します。最近では、「かな3音節名」は5%ほどです。「かな2音節名」の2%を合わせて、7%ほどの女性が「ひらがな名」です。

 明治生命の「名前ランキング2016」で女性名を見ると

  2位 さくら 13位 ひかり  23位 あかり   27位 ひなた  49位 のどか  60位 ひまり、すず 

  70位 すみれ 97位 ひなの

とトップ100に、9のひらがな名が入っています。それも明治維新頃の「かな2字名+い、え、の、よ、を」は「ひなの」だけで、他は「さくら」「あかり」のように、それだけで独立した名詞ばかりです。

 

(→かな3音節名の始まり)

 

5-5 「かな2字名」から「子のつく名前」へ

  右は、「かな2字名」のグラフに「子のつく名前」を加えたものです。1900年前後から、「かな2字名」が減少し、そのかわりに「漢字で書かれる[◯子]という名前」が台頭するのです。

 ある意味で女性の「かな2字名」は、江戸時代までの日本の伝統的な名前です。またそういう名前をつけるのは「しきたり」でもありました。

 そんな江戸時代までの「しきたり」を破ったのが[◯子]でした。もともと宮中の女にだけつけられた名前が広がっていくのです。

 それでは、だれがその「しきたり」を破ったのでしょう。「[◯子]の歴史」の続きを見てみましょう。