(7)自由民権運動と[◯子]   明治14年---

 皆さんは「自由民権運動の立役者」というと、だれを思い浮かべますか。板垣退助?後藤象二郎

 岸田俊子という人を知っていますか。この章の主人公はこの人です。

 

 

 7-1 女弁士「岸田俊(子)」登場(明治14年)

 右の新聞記事を見てください。これは『朝野新聞』1883(明治16)年10月19日に掲載された記事です。

 

◯有名なる女弁士岸田俊子は、去る12日の夜、滋賀県大津四の宮劇場にて、学術講演会の節、「箱入り娘」という題にて、滔々弁ぜられるが、閉会の後、該演説は政談に渉りしとて、直ちに警察へ拘引になり.......

 

 岸田俊子(本名とし、結婚後は中島俊子。1864〜1901)は、高校の日本史の教科書(*1)にも「婦人解放、自由民権運動」の立役者として登場します。「日本最初の女性解放運動家」と言ってもいいでしょう。

(*1 小葉田淳・時野谷勝編著『精説日本史』(数教出版1973第10刷,1964初版)

 

 下の新聞記事を見てください。そこには、次のように書かれています。(12行目から)

 

◯右の演説会に出席せらるるはずなる湘烟女史岸田俊子(20年:筆者注以下も,現在なら満18才)は、世にも珍しき閨秀(けいしゅう)にて裁縫の業はさらなり。詩文書絵にさえ妙なるのみならず、常に「我が国の母儀の修まらざる」を嘆息し、「時期あらば一大学校を創設し、もって女子のため従来の悪慣習を改良せん」と熱心企望していらるる。.....女史父を茂平と呼ぶ。西京の人、呉服商の小姐なり。17才(満15才)宮内省出仕に登用せられ、かたじけなくも皇后の宮に侍し、.....19才(満17才)辞して宮中を出て、弓鞋布韈(きゅうあいふべつ)母と共に飄然として東海道の諸州を歴遊し......。(『日本立憲政党新聞』明治15年3月31日号より)

 

  岸田俊子は、京都の下京松原東洞院の生まれです。父親は、祇園祭の山鉾も出る街中で稼業は呉服屋を営んでいました。俊子は、幼いときから学業優秀でした。

 明治12(1879)年、満15才で宮中で奉公することになりました。たった一年間でしたが、宮中で女官を務めたのです(それは下田歌子が女官を辞めた年でもありました。2人はすれ違いだったのです)。

 女官でしたから、「俊子」と[子]がつくのも当然のことでしょう。

 満17才からは、母といっしょに全国を講演して回ります。その回数は、月に4〜7回ほどもあり、自由党の講演者として引っ張りだこだったのです。新聞記事にもたびたび登場するようになります。

 

 がしかし、この新聞記事をよく見ると、最初の講演者名では「岸田とし女」とあり、次の紹介では「岸田俊子」となっています。当時「子」は、男性の「氏」のような意味がありました。「岸田俊 氏」という意味で「岸田俊 子」となっていることもあるのです。

 

 そんな満18才の「岸田」の講演の様子を『日本立憲政党新聞』明治15(1882 )年4月5日号は次のように書いています。

 

「岸田とし女の如には、容姿の端麗にして語音清朗に、かつその論旨も巧妙なりしかば、聴衆も皆心耳を潜し、かつ喝采は一段と盛んなりき」「当日の景況は2000余の聴衆◯◯に精しく目撃せられし所」 ◯◯は印刷不鮮明で読みとれず

 

 現在も、政治の世界に「マドンナ議員」と呼ばれる人たちがいますが、容姿が端麗で声もきれいな「岸田」は当時の「自由民権運動のマドンナだった」と言っていいでしょう。

 さらに,明治15(1882)年6月17日『郵便報知』は、こう書きます。

 

「京都府下京区第11組大政所町に住まるる旧女官岸田俊子(湘煙女子)の、論客に交際して、政談討論会に出席することは、すでに諸新聞にも記して、衆人の知る所なるが、あるいは女史が官に勤労なりしをもって、罷職後もなお若干の禄をたまわれる故に、政談演説会に出て自由説を唱うるも、そは実は政府の間謀ならん

などと疑う者もあれど、そは俊子の気象を知らざる我輩の想像なるべしと、」

 

 「元女官」というのも、ステータスシンボルだったのです。

 ところで「岸田」の名前ですが、新聞紙面では「俊子」「とし女」で揺れています。そんな中、明治16年10月19日、大津の講演会場で逮捕されてしまいます(このページの最初の新聞記事がそれを記録しています)。18日間の拘留の後、出獄します。そして翌年、20才で自由党副総裁中島信行と結婚します。

 その年に自由党の新聞『自由燈』に連載した文章には、自分の名前を「岸田しゅん女」としています。自由を謳う新聞であるので、宮中にいたころの「俊子」という名前から、あえて「子」をとったのかもしれません。

 明治22年「大日本帝国憲法」が発布され、夫である中島信行は衆議院議員に当選します。中島は初代の衆議院議長に選ばれ、後にイタリア公使にもなります。その前後に、「岸田=中島」は、『女学雑誌』という週刊誌に、37才で結核で死ぬまで、66回にわたって執筆しています。そのほとんどすべての筆名は「俊子」です(*)。一生涯、「俊子」と「俊」という2つの名前の間で揺れた「俊(子)」さんでした。

 *  66回のうち、「俊子/とし子→38回、俊/とし→9回、湘煙女史などの号→19回

 

 

7-2 俊子にあこがれた「景山ひで(子) 1865-1927」(明治20年)

 

 右は、明治20年1月15日の朝野新聞からの記事です。

 

 巾幗(きんかく:女性の髪飾り→女性のこと)の身を以って、敢えて国事犯を企て現に、大井憲太郎以下の人々と共に、大阪堀川

 の獄窓に呻吟(しんぎん:苦しみ呻くこと)し居る景山英子の世に珍しき女丈夫なることは、かねてより聞き居たるが、(以下略)

 

                                           明治20年1月15日(朝野新聞)より

 景山英子は、当時満20才、岸田俊子より1才若い岡山県出身の女性です。明治18年に、大井憲太郎ら自由民権運動左派が起こした「大阪事件」に加わって、「国事犯」として逮捕されていたのです。この人は「女官」でも「華族」でもありません。それなのにどうして名前に[子]がついているのでしょう。

 実は、明治15年に岸田俊子(当時満18才)が岡山に来たとき、景山英子はその講演を聞いているのです。景山は、大感激して、こう書いています。

 

 妾も奮慨おく能わず、女史の滞在中有志家を以て任ずる人の夫人令嬢等に議りて、女子懇親会を組織し、諸国に率先して、婦人の団結を謀り、(福田英子『妾の半生涯』1904、岩波文庫版1958, 結婚して福田姓になる)

 

 右は、明治15年5月19日『郵便報知』からのものです。中心部分を書き起こします。

 

 時勢の遇止すべからざる婦人女子と雖も、大いに政治上の思想を涵養し、国事のために尽力する場合に至りたるか、(竹内寿津下久米の2名が板垣退助の見舞いに行ったとき)有名なる岸田とし女史を訪い、岡山県下の形勢など談論のすえ、岸田母子を誘いて岡山にかえりしは、去る9日のことにて、「素より婦女子等も士気振興の矢先なれば」とし女史の来るを幸いに、一大親睦会を催して.......(以下略)

 

ここに出てくる女性名を書き出すと次のようになります。

 

 織尾、宇志、新、寿、光、房、松、安、豊、操、幸、貞、美喜、松、鹿、すみ、栄、松、寅、倉、小松

ここには「景山ひで」の名前はありません。翌13,14日に、講演会が開かれ、岸田俊子(当時18才)は「女権拡大」を訴えます。そこには「景山ひで(当時17才)」は参加し聞いています。 

 右は、『郵便報知』明治15年8月4日からの記事です。こちらの記事に出てくる女性名を書き出すと次のようになります。

 

  秀子、美佐尾、貞子、粂子、宇佐子、房子、寿子、光子

 

 すべての[子]がついています。「女官」でも「華族」でもありません。[子]はステータスシンボルだったのです。

 「景山英(子)」も同様です。彼女は、下級武士の子です。明治維新になって、下級武士は禄を失って、困窮します。彼女の両親も、塾の教師をして生計を立てます。彼女自身も、小学校を卒業した後、満14才で小学校の助教になります。

 そんな下級武士たちは、自由民権運動の担い手となります。最初は、国会開設の運動であり、それが実現することになると政党作成運動になります。さらに多面的な社会運動にすすんでいきます。

 「景山英(子)」は「女官」でも「華族」でもありません。彼女は、自由民権運動の流れの中で[子]というシンボルを掲げて、貧困の中「社会運動家」の道へ進んでいくのです。

 「岸田俊子」の方は、中島信行と結婚します。中島は自由党の解党の後、第一回総選挙で衆議院議員、議長となり、その後イタリア公使にもなります。俊子は、あくまでも「女性運動家」です。結核で37才でなくなります。

 

 

 とはいうものの、「女官」でも「華族」でもない人たちが、ただステータスシンボルのためだけに[子]をつけることが許されたのでしょうか。そんな時代だったのでしょうか。実は、「[子]のつく名前」を普及させた雑誌があったのです。それは次章で。

 

この章の参考文献(本文の掲げらていない文献)

 ・糸屋寿雄『女性解放の先駆者 中島俊子と福田英子』(清水新書1984)

 ・相馬黒光『明治初期の三女性』(厚生閣1940、復刻不二出版1985)                      「景山英子」

 

 ・西川祐子『花の妹ー岸田俊子伝』(新潮社1986)                        国会図書館「近代日本人の肖像」

                                                   出典 大日本皇道奉賛会『憲政五十年史:画譜』1942