(14) 大正に新しい女たち
14-1 [子]に逆らった女たち
いよいよ時代は明治から大正に移ります。[◯子]さんは、生まれている女性の20%になります。そして、[◯子]グラフは一直線に頂点に向かっていきます。
そんな時代に、あえて[子]のつく名前に逆らった人たちがいたのです。
右を見てください。これは、明治の最後1911(明治44)年に創刊されたある女性雑誌の1912年1月号の目次です。
ここに出てくる筆者は、すべて女性なのに[子]のついている人は一人もいません。3番目の「與謝野晶」とあるのは「与謝野晶子」のことです。どうもすべての筆者名からあえて[子]をとっているようです。これは、何という雑誌でしょう。
この雑誌は『青鞜』です。1911(明治44年)年9月に創刊され、6年間続いた月刊誌です。『青鞜』は女性だけの雑誌です。女性の文学、評論だけを載せ、編集も女性だけで行われました。
編集代表は「平塚らいてう(らいちょう1886〜1971)」で、本名は明(はる)です。「らいてう」は雷鳥をイメージしたペンネームです。[子]はつきません。
『青鞜』は、後に「新しい女」という流行語を生みます。らいてうの写真を見ていると、私には「新しい女という言葉は、らいてうにぴったりだ」と思えるのですが、どうでしょう。
「らいてう」が言います。
自分は新しい女である。
少なくとも真に新しい女でありたいと日々に願い、日々に努めている。(中略)
新しい女は『きのう』に生きない。(中略)
新しい女は、男の利己心のために無知にされ、奴隷にされ、肉塊にされた旧い女の生活
に満足しない。(後略)
(『中央公論』第28号2号,1913(大正2)年より、平塚らいてう『元始、女性は太陽であった 下巻』(1971,大月書店)P.426に掲載)
そんな「らいてう」らが創刊した『青鞜』が[子]のつく名前に逆らったのです。考えてみれば[子]は、もともと天皇周辺の女性だけにつけられた名前です。そんな封建的な名前に『青鞜』の女たちが逆らったのは、当たり前のようにも思えます。『青鞜』には、「女性が、封建的な道徳にじゃまされずに、自分の力を発揮できるように」という「らいてふ」らの願いが託されていたのです。
しかし、創刊当時の『青鞜』には、ちょっと違った事情があったようです。下は、創刊号の「目次」です。ほとんどの名前に[子]がついています。また、同じ号の「発起人」の欄を見ると、「らいてう」自身も「平塚明子」と[子]つきの名前になっています。さらに「社員」を見ると一人を除いて17人全員に[子]がついています。
実は『青鞜』の創刊の目的は「女流文学の発達を計」(「青鞜社概則,第1条」『青鞜』創刊号より)ることでした。それが次第に「女性解放運動」の方に、傾いていくのです。
14-2[子]から見る『青鞜』の移り変わり
右の表を見てください。これは、『青鞜』のすべての号で、筆者名に[子]がある(●)か、[子]がないか(⚪︎)、を表したものです。[子]のあるなしで、『青鞜』の方向性や勢いを見ることができます。堀場清子著『青鞜の時代ー平塚らいてうと新しい女たち』(岩波新書1988)と平塚らいてう(1971)『元始、女性は太陽であったー平塚たいてう自伝』上、下(大月書店1971)に従って、以下見ていくことにします。
[1911年=◯子の時代]
『創刊号』の「賛助員」には、当時の名だたる女性たちが名を連ねています。
与謝野晶子(女流歌人の第一人者) 小金井喜美子(森鴎外の妹)
森しげ子(森鴎外夫人) 国木田治子(国木田独歩夫人)
加藤壽子(小栗風葉夫人) 長谷川時雨(戯曲家)
岡田八千代(小山内薫の妹)
有名な『青鞜』の表紙は、長沼智恵子(1年後に高村光太郎と結婚)によるものです。
社員の中にも、野上弥生子など、文学経歴を持つ人が何人も含まれています。
こうして見てみると、『青鞜』は、「当時の女流文学関係者」を一同に集めて創刊された、という感があります。平塚らいてう自身も、父定二郎は、「官界に入り、憲法草案の起草にも関わ」り、「一高のドイツ語講師を兼ね、会計検査院次長」(堀江1988:p.13)にもなった人です。母つやも、徳川家一門の「御典医の娘」です。
当時の日本の状況は、日露戦争に勝利し、綿織物を中心に産業も、欧米列強と肩を並べようとしていました。欧米でも「婦人参政権」運動が起こり、1893年にはニュージーランドでそれが認められました。アメリカでも「ニュー・ウーマン」という語が、ヘンリー・ジェイムスの小説から世の中に広がっていました(堀江1988:p.180)。
そんな時期の趨勢の中で『青鞜』は創刊されたのです。「青鞜社概則 第1条」は「女流文学の発達を計り、各自天賦の特性を発揮せしめ、他日女流の天才を生まむ事を目的とす」とあります。あくまでも「女流文学」の発展が目的だったのです。
『青鞜』と同じ1911年9月に演劇イプセンの「人形の家」が松井須磨子主演で公演されます。それまで歌舞伎や新劇(『ほととぎす』も上演された)だけだった演劇の世界に、ヨーロッパから、しかも「主人公ノラが夫を捨てて生きていく」という内容は、当時の人々には考えられないほどのショッキングなものだったのです。
そんな『青鞜』の創刊は、「予想外の反響」(平塚1971:338)を得ます。
[1912年,1913年=[子]なしの時代]
1912年の第2巻1号から「目次」の筆者名に[子]が消えます。堀江(1988:p.77)は次のように書きます。
『青鞜』執筆者の名前 ●→[子]あり ◯→[子]あり
1911 9 月号●●●●●●●◯◯◯
(明44)10月号●●●●●●●●◯◯◯
11月号●●●●●●●●◯◯◯◯◯◯
12月号●●●●●●●◯◯◯◯
1912 1月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
(明45) 2月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
3月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
4月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯ ←発禁(荒木郁小説『手紙』姦通を扱う)
5月号●●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
6月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
(大1) 7月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
8月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
9月号●●●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
10月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
11月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
12月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
1913 1月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
(大2) 2月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯ ←発禁(福田英の文章掲載のため)
3月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
4月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
5月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
6月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯
7月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
8月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯
9月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
10月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯
11月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
12月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
1914 1月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯ ←らいてう、奥村博と同棲開始
(大3) 2月号●●◯◯◯◯◯◯◯◯
3月号●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
4月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
5月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
6月号●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
7月号●◯◯◯◯◯◯◯◯
8月号●◯◯◯◯◯◯◯◯◯
9月号 欠号
10月号●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
11月号●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯←多忙らいてうに変わり伊藤野枝編
12月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
1915 1月号●●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯ ←伊藤野枝が編集を受け継ぐ
(大4) 2月号●●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
3月号●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
4月号●◯◯◯◯◯◯◯◯◯
5月号●●●◯◯◯◯◯◯◯◯◯
6月号●●●◯◯◯◯◯◯ ←発禁(原田の堕胎論で)
7月号◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
8月号●●●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
9月号 欠号
10月号●●◯◯◯◯◯◯◯◯◯
11月号●●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
12月号●●●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯ ←らいてう女児出産
1916 1月号●●●●●●●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
(大5) 2月号●●●●●◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯←伊藤、大杉栄の元へ、無期休刊
[子]を捨てた事実を「自己確認の過程だったと思われる。おそらく彼女たちの名前には、もともと[子]がついていなかった。だから実感として、[子]のない方が自然であり、虚構やまじり気のない、真実な自己と向き合う気持ちにさせたのであろう」
らいてう自身も、名付けらてた名前は「明(はる)」です。それが、官僚の家庭で女学校に通ううちに、いつのまにか「明子」と呼ばれるようになったのです。
さらに、ちょうどその第2巻1号には、茅野雅「女のうた」という詩が載ります。その第2節は、次のとおりです。
況して我が背負える十字架を、『子』という重き黒き荷を、降りつもる雪を、赤き我が素足を 如何で知り給わじ知らむともし給わじ、
君は男にて我は女ならば。
『子』というのは「女が子どもを産み育てる」という意味ですが、この「女のうた」は『青鞜』が[子]を省いたことを象徴しているように思えます。いずれにしても、平塚らいてうらは、習俗打破を念頭に「[子]を省いた」ことは間違いないでしょう。
さらに『青鞜』は時流に乗り、1912年の創刊1周年を迎える頃には、『読売新聞』が「新しい女」という連載(25回,5.5-6.13)を組みます。そんな流れの中で、同じ『読売新聞』6.11に「その連中が和洋の酒を飲んだ」6と書かれたり、『万朝報』7.10に「吉原で豪遊」と書かれたりして、世の中にセンセーショナルを巻き起こします。
らいてうは、『中央公論』1913年1月号に「自分は新しい女である」という文を寄せます。まさに『青鞜』は、各方面からの攻撃を受けながら、全盛期を迎えます。1913年10月号では「青鞜社概則」を改正し、第1条「女流文学の発展を計り」が「女子の覚醒を促し」と変えられます。「青鞜社の目的」が[文学]から[婦人問題]に変えられたのです。
[1914年,15年,16年=◯子の時代再び]
さらに、らいてうには、画学生の奥村博という恋人ができ、1913年12月に祝宴を挙げ、親元を離れて、奥村博との共同生活に入ります。家事など多忙となります。理想を追えなくなってきたからでしょうか、そんな頃に、[子]のつく筆者名が復活します。
ついには1915年、編集を伊藤野枝に譲ります。野枝の時代になると、さらに「子のつく女性筆者」が増え、最後は、野枝は大杉栄(社会運動家)との恋愛生活に入り、『青鞜』は最終号を迎えます。その後、伊藤野枝は大杉栄と共に憲兵隊員によって虐殺されます(1923年)。
そんな終焉を、らいてう自身は「『青鞜』とともに終わった青春」(平塚1971:p.589)と書いています。
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