ラフカディオ・ハーンは「勇子ー追憶(Yuko: A Reminiscence)」という文章(*)を書いています。「畠山勇子:はたけやま ゆうこ(1843-1891)が「〈ロシアの皇太子が日本人の警官に刺される〉という大津事件(明治24(1891)年5月11日)の後に、〈日本人を代表して責任を取る〉と自殺(同年5月20日)した」というのです。

 勇子は、東京で女中をしていました。どうしてそんな身分の女性の名前に[子]がついていたのでしょう。当時の新聞記事を見てみることにしましょう。

Hearn, Lafcadio (1895). Out of the east: reveries and studies in new Japan  .Houghton,Mifflin and company,Boston and New York(平井呈一訳(1952)『東の国から(下)』岩波文庫)より                                               

        写真は  Moraes(mar.1908) Hatakeyama Yuko  'Seroes Revista Mensal Ilustrada 2ª série, vol. V N.º 33 ' ,Livraria Ferreira Lisboa

 

(10) 畠山勇子は男か、女か

 10-1 「畠山雄虎(30)、京都府庁門前で自殺を謀る」明治24(1891)年5月20日

  右の新聞記事を見てください。「自殺」事件があったのです。

 

 本日(20日)午後7時45分ごろ、千葉県人畠山雄虎(30)なる者、車夫をして3通の書面を京都府庁に投入せしめ置き、同府庁門前において、カミソリをもってのどを突き、自殺を自殺を謀りしも死に至らず、もっか治療中なるが、その書面によれば、露太子殿下の東京に入らせられざりしを深く遺憾に思い、死を決したとの旨を記載しありしという。 『東京朝日新聞』明治24年5月22日

 

 新聞では「ゆうこ」を男だと思っています。当時は「電報」で記事を東京に送ったのですから誤解が起きても無理はないでしょう。日後の新聞では訂正されています。

 

...右の自殺者は...畠山文次郎姉(前号に雄虎とせしは電の誤訳)という婦人て...髪は束髪にして一見みたところでは、あたかも女学校卒業生のごとくなりし...何にしても奇女子というの他なきなり。  

                               『東京朝日新聞』明治24年5月24日

 

 この人は、本当に「勇子」なのでしょうか。彼女の書いた手紙には、すべて自分の名前を「勇子」と署名しています。しかし彼女は東京で女中をしていた身です。前節で書いたように、その当時は「庶民である女性が[◯子]と自分の名前を書いたら、周りの人から笑われる」のではないでしょうか。

 実は、この人の本名は「ゆう」です。私の友人は、彼女の出身地である千葉県鴨川市の観音寺に行って調べてきました。その結果、本名は「ゆう(おゆうさん)」だったのです。彼女は、その行動を起こすに当たって「勇」という字を選んで「勇子」としたのです。

  連日、新聞は勇子のことを報じました。どれも好意的です。ある新聞は、勇子のおじのことを〈江戸時代には幕府の御用達を勤めた豪商で、倒幕のときにはお金を用立てたが、今は没落した〉(『東京日日新聞』明治24年5月28日)と書いています。こういう記事を読んでいると、私には勇子が「私は、今は没落しても、本当は[子]をつけてもいいくらいの身なんだぞ」

 

 10-2 「畠山勇子」事件に感動したハーンとモラエス

 ハーンは、京都にある勇子の墓を訪れ、次のように書いています(*)。

...この犠牲的行為は、私がそれに感動したよりはるかに大きな激動を、日本国民の感情をかき乱した。勇子の「何千枚もの写真」と「何千冊もの本」が売られた。数限りない人々がその墓を訪れ、手向け物を捧げ、優しく畏敬の念をもって遺物を見つめた。なぜだろうか。....

 日本人というものは、「美の真実」というものは内なるものであることを知っている。平凡な些細なことは貴重なのだ。....日本人は、ありふれた事実から、最上のものを見る。それは、ふつうの人の中から英雄が現れたということだ。...われわれ西欧人は、そうしたふつうの人々から道徳律を学ぶべきではないだろうか。再度試みるべきではないだろうか。     

 原文より筆者訳(*Lafcadio Hearn(1897) 'Notes of a trip to Kyoto' Gleanings in Buddha-Fields Kegan Paul,Trench Trubner  & company London、邦訳は「京都

 紀行」、竹友藻風訳,沼波武夫著『大津事件の烈女 畠山勇子』(斯文書院1926)、平井呈一訳『東の国から 下』(岩波文庫1952)の2冊に含まれる)

 

 ハーンは、「日本人の美学」に感動して、西欧に紹介しています。しかも〈われわれ西欧人も、学ぶべきではないか〉とさえ言っています。

 ポルトガル人のヴェンセスラウ・デ・モラエス(1854-1929)も、「畠山勇子」事件のことを西欧に発信しています。モラエスは、神戸のポルトガル領事館の副領事として赴任(1899)し、ポルトガルの雑誌『セロンイス』(1908)に「畠山勇子(*1)」という文章を寄せています。

 

 われわれ西洋人は神聖なる祖国のため、神なる「みかど」のために、これほど深い心情を吐露し、これほど果てしない優しさを披瀝することができない。(p.36)

 わたしたちには、ある不可解な道徳律の荘厳さの前に立つ思いがある。ちょうど、森羅万象の中にあるとき、突然、眼の前に、火星か土星か、ある不思議な星の驚嘆すべき風景が出現したように、茫然自失してしまう........(p.36)

 勇子の行為は、祖国と天皇とを崇拝して、その前に己が生命を喜んで差し出す原始的宗教たる「神道」の道義に深く喚起されている。(p.40) 

 (神道と仏教との)2つの宗教があのやさしい日本の娘の奇特な心根に恵みを垂れて....(p.41)

                                           (モラエス著,花野富蔵 訳(1936)『日本夜話』 第一書房より,  (    )は筆者補)

(*1)Hatakeyama Yuko 'Seroes Revista Mensal Ilustrada 2ª série, vol. V' ,Livraria FerreiraLisboa

 

それはともかくとして、当時の「畠山勇子」の事件は、賞賛されることはあっても、「庶民なのに[子]を名前につけた」をとがめる世論は一つも見つかりません。そういう時代が訪れたのです。

 とはいうものの、[◯子]という名前が一般庶民のものになるのは、もう少し後のことです。

 

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(11) [子]流行の真犯人は?

 

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