(16) ひめゆりの塔と[子]

16-1 昭和の時代に[子]のピークを迎える

 右のグラフを見てください。日本全体では[[子]のつく女性名のグラフ」は登り続け、昭和20(1945)年に、ピークを迎えます。なんと80%の女性に[子]がつけられたのです。その後は、グラフがなだらかに減少していきます。

 昭和20年というのは終戦の年です。戦争と名前とは関係があるのでしょうか。沖縄の女性名を見てみましょう。やはり[子]が多数派でしょうか。

 

 下の写真は、沖縄県にある「ひめゆりの塔」です。そこには,当時13才から19才だった少女たちの名前211名が刻まれています(教職員16名の名前も)。那覇市にあった「沖縄師範学校女子部」「県立第一高等女学校」から、学徒隊として病院で働いていて、爆撃を受けて亡くなった少女たちの名前です。

 

[問題1]

 「ひめゆりの塔」の女性名には[子]があるでしょうか。1930年生まれの人が中心です。日本全体では,この頃の女性は70%に[子]がついていました。

ア.  [子]のつく女性名はない

イ.  [子]のつく女性名は少しある

ウ. [子]のつく女性名はたくさんある

 

[問題2]

 日本全体では,[子]のつく女性名は,1890年生まれ頃からです。沖縄では,どうでしょう。

ア.  同じくらい(1890年頃)

イ.  それより前

ウ.  それより後

 

[問題3]

 [子]のつく女性名のピークは,1945年生まれの80%です。沖縄では,どうでしょう。

ア.  同じくらい(80%)

イ.  それより多い

ウ.  それより少ない

 

 ひめゆり塔の最初の10名の女性名を挙げます。(1930年頃生まれ)

チヨ 系子 貞子 千枝子 嘉子 キヨ 清子 愛子 きく 敏子

 211名全員の名前をみると、131名(63%)に[子]がついています。沖縄には他にも学徒隊の塔があります。その少女名を見てみると(ひめゆり平和祈念資料館編『沖縄戦の全学徒隊』2008、同編『墓碑銘』1989より)

         (女子総数)      (うち[子]がある)

第三高等女学校   58名        44名                (75.9%)

首里高等女学校   55名     32名     (58.2%) 

積徳高等女学校   33名     15名     (45.5%)

昭和高等女学校   62名     23名     (37.1%)

 それにひめゆり(沖縄県女師範・一高女)の211名(うち131名が[〜子])を合わせると、419名中245名(58.5%)の女性名に[子]がついています。その子たちの年齢は15才ほどですから、1930年生まれです。日本全体で1930年生まれの女性は、70%に[子]がついているので、沖縄では少し低い気がします。やはり沖縄県は、もともと琉球王国であったわけで、他府県より低くなるのでしょうか。

 

もう少し、沖縄の女性名の歴史を見てみましょう。

 4つの小学校の「卒業生名簿」があります。

1『沖縄師範学校付属小学校 創立百年の記念誌』(1982)

2『那覇市立高良小学校,幼稚園創立50周年記念誌』(1996)

3『竹富町立小浜小学校,創立百周年記念誌うふたき』(1997)

4『名護市立名護小学校百年誌』(1983)

 その4校の女子卒業生1万2000人の名前に[子]がついているかどうかを調べ、グラフにしました。

 

 やはり全国(青線)と同様に終戦の年(1945年)のピークに、富士山のような左右対称のグラフになりました。[子]のつく名前の増加には、戦争が関係しているようです。ただ1945年生まれの女性名の[子]のつく割合は95%にもなります。

 戦争までの日本人は、個性よりも調和を大切にしました。「八紘一宇(はっこういちう)」という言葉があります。それは「全世界をひとつの家にする」という意味です。特に沖縄県では「気持ちをひとつに」という思いが強かったのでしょうか。

 それが、終戦を境に、人々の価値観が多様化していきます。親たちも、自分の子どもが「個性的である」ことを願うようになり、子どもたちの名前も変化していきます。

 

 ひめゆりの塔に刻まれたある少女(愛子さん,師範学校女子部本科2年,19才)について『墓碑銘』には次のように書かれています。

 首里に生まれ育ち、言葉づかいが丁寧であった。学校では、教室の黒板を隅々まで拭き、よく教卓に花を生けていた。奉仕的な事をすすんでする愛子は、学友から親しまれていた。5月中旬頃、首里から家族と共に南風村に避難したが、その後南部に移動した。6月18日、父が壕掘りに出かけている間に真壁町真壁(現糸満市)の民家で直撃弾を受け、姉と共に即死した。

 

 もう一度、「沖縄女性の[子]のグラフ」を見てください。左が%で、右が人数です。全国のグラフ(青線)も比較のため入れました。

「[子]のつく女性名」について「沖縄県」と「全国」とで、いくつか相違があります。

1 右は、実数のグラフですが、それを見ると、昭和20年から22年の女性数が1/2以下です。いかに沖縄戦とその戦後がたいへんだったかがわかります。

 

2 1945年のピークがとても高い。他都道府県では80%なのに、沖縄では95%もあります。

 

3 沖縄県では、[子]のグラフの立ち上がりが遅い

 もともと沖縄伝統の名前がありました。カマド,ウシのような「童名(わらべな)」です。沖縄県の人たちがそれを大和名(他都道

 府県と同じような名前)を受け入れていくのに、時間がかかったのでしょう。

 

[問題4]

 沖縄の女性には,「カマド,ウシ」などの伝統の名前がありました。それが1945年にはほとんどが[⚪︎子]になりました。「ほとんどが[子]」になったのは,なにか理由があったのでしょうか。

ア.  [子]のつく名前に変えるように,政治的な圧力があった。

イ.  特に,何もなく,沖縄の人は自然に[子」のつく名前になっていった。

ウ.  その他。

 

 右は「首里高等女学校補習科 第12回卒業生(1900年頃生まれ)」の名前です。『卒業者名簿』からです。

 左は「卒業したときの名前」で,右は「今の名前」です。

 

もともと「マカト」は「恒子」に  「カマ」は「千代子」に なっています。

 ここに載っている18名(他に死亡3名)のうち

⚪︎改名した   11名   

⚫︎改名していない 7名

 

 実は,学校や社会で,「大和名に改名するように」という運動があったのです。

 


上の記事は『沖縄県平和祈念資料館 総合案内』2001年第1刷(2017年第10刷)p.35からのものです。そこでは「改姓改名 徴兵制,皇民化教育などの徹底する中,沖縄固有の姓名を大和風に改めたり,沖縄独特の読み方を「標音」に変更する者が出た。1942(昭和17)年からは,復姓願・改名願が簡略化され,改姓改名をする者が増えた」とある。そこにある記事を書き出してみる。

珍奇な名は改めよ

 就職や社交上に損をする 沖縄の珍しい運動

婦人の姓名には頗る珍奇なものが多く,就職や社交上に支障を来たすことが多いので,東京在住の本県人を以て組織する「南島文化協会」では,「珍奇な姓名を改正することが県人の利益なり」とし,積極的(?)に改正運動に乗り出すことになり,八幡幹事は,目下帰省して,各方面と折衝中である。

 →大阪朝日新聞(鹿児島・沖縄版, 1936(昭和11)年

  8月13日

 

改姓改名時代 沖縄県当局の計らいに 大喜びの願書続々(沖縄だより)

 沖縄県民の珍しい姓名に,いよいよ別れをつげる時がきた,県外域外(?)で活動する県人が,いかに⚪︎解の姓名のため泣かされたか,県民に与えられた精神的打撃は,頗る大きく,沖縄当局では,この悩みから救うため,改姓,改名に特別な便宜を与え,最近に至っては,毎日平均10件の願書が県庶務課に提出され,同県取り扱い文書の約6割は,全部改姓改名願書だというから驚く。

 すなわち改姓は,複姓が許され,沖縄の姓名は,祖先の拝領地の地名を冠し,拝領地が代わる時に,姓も...................

が許され,最近許可された珍姓名の改姓を紹介すると........

女のメガンサ,マイヌ,クヤマ,マイツガュ,ウシ,カマ,カメ,ナベなどが,⚪︎枝,千代,良,春,雪子などと他府県同様のやさしい女名前に変えることができ,この改名⚪︎は,ものすごい人気で,恐らく1年間に,改名者が2,3千名にも及び,生まれる児は,全部他府県なみの名前をつけているので,近く沖縄の珍姓名は全部解消するものと期待されている。

 →大阪朝日新聞(鹿児島・沖縄版, 1939(昭和14)年

  2月8日