(5)中世の成人男子の名前

 

(1) 1298年のデータがあった

 奥富(1999)には、1298年の名前のデータが載っています。それは竹内理三編『鎌倉遺文』第26巻(東京堂出版,1984)から「近江津田奥津島両村人等連署起請文」(19703号)というものです。津田荘(近江八幡市・北津田町)の村民たちの名前です。

 

(注) この名簿にはあと2名「しんあま」「そあま」という名前も入っていた。女性であろうから除いた。

   「近江津田奥津島両村人等連署起請文」より村民の名前

 はつ四郎, 平三郎,兵衛允,れんせう房,西念,くまいし大郎三郎大郎,二郎大郎,

 □大郎,のうせう,とく大郎,資かけ,とう四郎,中二郎,九ない三郎.そう大郎,

 造念房,とうけん次,たいふとの,わた平大郎,平先生,□二郎,五らく,まん行,

 と与大郎,定蓮,源先生,綱利,平大郎,こん大郎,セういう,紀平,左衛門允,成仏,

 こん二郎,二郎大郎,まつ大郎,平大郎,平四郎,薬師大郎,仏念,成善,やさい大郎,

 すけ二郎,まこ大郎,源大郎,四郎大郎,彌四郎大郎,乙四郎,権次郎,まこ次郎

 藤次郎,中大郎,二郎大郎,源内,けさつ房,又三郎,来とく,石二郎,西実,犬大郎

 藤介,先三郎,進王三郎,安大郎,牛王三郎,進小二郎,ほうふつ,とくねん,紀平,

 又大郎,得二郎,平三郎,平介,惣大郎,京万,平安房,□藤次,成願,藤先生,右近ゝ,

 いわう,□生,大進,庄太,熊四郎,彌源太,すいもん,権三郎,□二郎,□仏,安則,明心


 

 93名の名前のうち48名(52%)に[郎]がついています。それをグラフに書き入れると、右のようになります。

 

 これを見ると、1300年から1500年の空白が気になります。何かいい資料はないでしょうか。

ありました。『菅浦文書』です。

 

(2) 『菅浦文書』から中世の名前を見る。

  滋賀県の琵琶湖の北岸に「菅浦」はあります。この港町は、中世には自治組織があり、神社に貴重な中世資料が1200点残っていて、多くの研究者によって利用されています。滋賀大学日本経済文化研究所叢書『菅浦文書』上、下(有斐閣1960,1967)

 

 『菅浦文書』の中から、男性名がまとまって見られるものを9点抜き出しました。 それを右表に掲げました。

 

 

番号

男総数

うち[郎]

[郎]%

題名

1

326

1342

70

28

40%

「日差・諸河田地注文」

2

802

1408

65

29

45%

「日差・諸河土帳」

3

804

1410

62

38

61%

「尼明林借米証文」

4

356

1414

61

33

54%

「日差・諸河田畠算用日記」

5

853

1479

35

27

77%

「菅浦衆百姓等連署置文写」

6

1065

1518

110

62

56%

「年貢納帳」

7

472

1523

96

59

61%

「供御麦納帳」

8

476

1564

78

56

72%

「出銭日記」

9

186

1567

29

18

62%

「菅浦衆出銭日記」



 その9点から、[〜郎]のつく割合を調べて、上のグラフに書き加えると、右のようになります。 

 

どうも「[〜郎]は、鎌倉時代から明治維新まで、一貫して引き継がれた男性名」と言っていいようです。

 それでは、男性名に「〜郎」が広く使われるようになったのはいつ頃なのでしょう。

 いったい[郎]のつく名前は、いつ、どのようにして始まったのでしょう。

 

 

(3) [衛門][兵衛]のつく名前は、中世にもあったのか。

 [〜衛門][〜兵衛]のつく男性は、江戸時代を通して30〜40%ほどいました。1600年以前はどうだったでしょう。やはり『菅浦文書』で見てみましょう。坂田聡(2006)『苗字と名前の歴史』(吉川弘文館)には、総数3285名分の男性名の集計表があります。そこから[〜衛門][〜兵衛]の数を抜き出して、「3章」で掲げたグラフに書き加えると、下のようになります。

 これを見ると、[衛門][兵衛]のグラフは、1400年ころ立ち上がり、江戸時代になると30〜40%を占めるようになります。[衛門][兵衛]といった官途名は「村の鎮守の宮座の場で官途成という儀式を行うことによって、はじめて名のることができた(坂田2000:p.35)」名前です。そしてそれは、代々受け継がれていきます(坂田聡「中世百姓の人名と村社会ー近江国菅浦の実例を中心にー」『紀要、史学科』第45号、中央大学文学部2000)。

 坂田氏はさらに次のように述べています。

 

 中世後期に形成された新しい村は、先祖代々永続する家を単位とする組織であり、この家の成立を物語るものが、官途名をはじめとした人名の家名化だった。(坂田2000:p.42)

 

 いずれにしても、「1400年代から、新しい村組織が生まれ、それは江戸時代になって固定化された」と言っていいでしょう。「名前」の推移は、社会の推移そのものを物語るのです。坂田氏をはじめ、中世史の専門家は、数々の詳細な研究をしています。私は、名前、特に[〜郎]にしぼって通史的な研究をすすめたいと思っています。

 

(著者追記)菅浦はどのくらいの規模の村か。100戸、1000人前後の村であろう(「近世から現在までの菅浦の戸数は100戸前後でほぼかわらない」「鎌倉末期段階の全在家数が72宇である可能性は高い」田中克行(1998)『中世の惣村と文書』山川出版社:p.141)。『菅浦文書』に出てくる人名はそのすべてではなく、また同じ人の名が重複して出てくるであろう。それは『名つけ帳』でも同様である。それは注意しつつ、データ処理をしないといけない。

 [衛門][兵衛」の割合では、坂田氏のデータを使用した。私自身も、『菅浦文書』から上の9点から[衛門][兵衛]の割合を出したが、坂田氏のデータとほぼ一致した。データ数の多さから坂田氏の作成した数値を使用させてもらった。

 

(4) [〜郎]はいつから始まったか

 [郎はいつから?ーーーー私の2つの予想]

  ア.  平安後期から鎌倉時代に、武士たちの名前に[ー郎]が多くつけられた。

  イ.  もっと以前、平安中期以前から、貴族たちの名前に[ー郎]が多くつけられた。

 

 疑問は深まります。

 ⤵️つづき (6) [〜郎]という名前の誕生

 

 ⤵️ 一つ前に戻る 「(4)  江戸時代の男性名」へ

⤵️ホームに戻る