[2]  [◯子]は明治維新から?

2-1 先行研究を疑う

 秋田書房の『歴史と旅』という雑誌に『特集 苗字と名前の不思議』(1992.12月号)があります。そこに前沢紀子「世相に見る名前の変遷 明治ー平成の名前の歴史」という記事がありました。そこには

「〈◯子〉型の名前の広がりについては、

             いくつもの調査結果があるが(p.129)」

とありました。調べてみると、確かに調査結果がありました。 

 まずは、寿岳章子・樺島忠夫(1958)「年代による女の名前の型の消長」『計量国語学7』です。そこには、京都第一高等女学校の『卒業生名簿』を使って「◯コ型」を数えた表がありました。また佐久間英(1967)『赤ちゃんの名前』(大泉書房)にも東京の9つの女学校の「同窓会の名簿について、"子"の字のつく名前を調べたデータ」が載っていました。その2つのデータをグラフに表して、前ページグラフに書き加えると、右のようになりました。

 

 さらに角田文衛(1988)『日本の女性名(下)』教育社、p.331には、次のように書かれていました。

 華族女学校[女子学習院の前身]の明治28年[=1895年]7月の卒業生と同期生(途中退学者)は50名であったが、うち26名は子型の名を帯びていた(52パーセント)。[  ]は井藤

 

 この当時の「女子学習院」というのは、現在でいえば高等学校段階の学校でした。その卒業時の年齢は18歳ほどですから、卒業生は1877年(明治10年)生まれくらいです。明治初期から〈子のつく女性名〉は一般的だった」というのです。

 本当にそうでしょうか。

 角田(1988)が使っている資料は『女子学習院50年史』(昭和10年、東京女子学習院発行)です。その「卒業修了及修業者竝入園者名簿」(p.83)のは、こう書かれています。

 

 明治29年7月卒業(附同期生)

  星野つる 辻村たへ子 井上若菜 古荘清 相良貞子 三島鶴子 土方玉子 森乙女 田島秀子 秋月順  (*1)

 

 たしかに10名中5名に〈子〉がついています。でもよく見ると、これは昭和10(1935)年発行の資料です。卒業した明治28(1895)年から40年もあとのものです。

 

 これは「二次資料」です。もとになった資料「一次資料」を見ないと、本当のことはわかりません。なんとしても「一次資料」が見たい。それが見つからなくても同時代の資料「同時代資料」が見たい。そう思っているところに見つかったのが、『女學雑誌』第424号(明治29(1896)年7月25日発行)の記事です。こう書かれていました。

 

 明治29年4月度全国各女學校卒業生一覧表(2) ◯華族女學校卒業生10名

  星野つね 辻村たへ  井上若菜 古荘きよ 相良貞 三島つる 土方玉  森乙女  田島秀 秋月順

 

 なんと、この資料では、華族女学校卒業生10人全員に〈子〉はついていないのです。やはり「一次資料」「同時代資料」を見ないといけません。「資料批判」は大切なのです。

 実は角田氏自身も、資料批判をしなかったわけではありません。女子学習院の同窓会である常盤会が出した『常盤会会員名簿』については、「本人に敬意を表するため、2音節2字型の名に〈子〉を加えて、〈◯子〉型の名として表記している」と書いています。こんなにも慎重な角田氏が使った『女子学習院50年史』(昭和10年)ですら信頼できなかったのです。

 こうなると、何とかして当時の一次資料と〈その時代に書かれた資料〉を見てみたくなりました。

 

 そのようなことを思ってあれやこれたと考えていたときに目に止まったのが、板倉聖宣編『週刊朝日百科 日本の歴史103 学校と試験』(朝日新聞社,1988)です。その本には「明治期の学校建築」という写真資料が掲載されており、その学校のいくつかは博物館になっているといのことでした。

 私は「博物館として現存しているのなら、その学校の卒業者名簿も保管されているのではないか」と、ふと思いました。思いつくと、居ても立ってもいられず、それらの博物館に電話をかけて相談してみました。すると、長野県松本市にある「重要文化財 旧開智学校」には、在籍名簿があることがわかりました。そこで、松本市に出かけて、それらを閲覧させてもらいました。

 (*1)原文には59名の名前が載っているが、そのうち10名を、筆者が『女學雑誌』の名前に合わせて、抜き出した。

 

2-2 自分でデータを集めてグラフを描いた

 そうして描いたのが右のグラフです。明治4(1870)年から昭和2(1927)年生まれまでの6384名の統計です。

 これを見ると[子]のつく女性名は、1890年以前にはいません。明治維新(1868年)から始まったわけではないのです。

(*1)

 

(*1) ただグラフには現れていませんが、1890年生まれ以前にも4名の〈○子〉さんがいます。

  明治16(1883)年生まれ ○○芳子

  明治18(1885)年生まれ ○○常子

  明治19(1886)年生まれ ○○倭子

  明治20(1887)年生まれ ○○俊子

の4名です。1889年以前の総数1655名の中の4人(0.24%)ですから、統計的には無視してもいい数です。しかし細かく見ると「[子]のつく名前は、1882年から1890年にもほんの少数いた」ということになります。

 

2-3 [子]のつく名前のグラフ完成!

 ここまで来ると、グラフを全部書いてみたくなりました。さらに古本屋や図書館で、全国各地の小学校の『記念誌』を集めました。そして書いたのが右のグラフです。

 このグラフには47,000人の女の子の名前が集まってできています。上は割合(%),下は実数です。

 

 なんと、敗戦の年1945年がピークです。1945年で、親たちの価値観が変わったのです。それまでは「統一こそ大事」だったのが、「個性こそ大事」の時代が始まったのです。

 

 それでは[子]には、当時の親たちのどんな思いがこめられているのでしょう。次に[子]のつく名前の先駆者たちを探してみることにします。